Ghadiri Labに留学して:高谷光

本体験記は近畿化学協会有機金属部会Organometallic Newsに掲載されたものを改変、編集したものです。掲載内容は2004年当時のものです。

スクリプス研究所はカリフォルニア州サンディエゴ近郊にある米国最大の私立研究機関である。もともとは医学、薬学、生化学分野における基礎研究を行う機関として設立されたため、有機化学や有機金属分野ではそれほど名前の知られた研究機関ではなかった。しかし、1987年に研究所理事になったR. A. Lerner 教授によって化学分野の積極的な拡張と増強が行われ、ここ10年程の間にJACS誌やAngew Chem誌等でThe Scripps Research Instituteの名前を見かける機会が一気に増え、そのため最近では基礎化学分野における優れた研究機関の一つと数えられるようになった。スクリプス研究所の名前を知らない方でもK. B. Sharpless, K. C. Nicolaou, J. Rebek Jr., D. Boger, C. H. Wong, A. Eschenmoser, P. Schultz, K. Wuthrichといった化学者の名前をご存知と思うが、彼らはLerner教授の戦略のもとにスクリプスの化学科に集められた教授達である1

私はタンパク質や酵素に興味を持っていたので学生時代からLerner教授やSchultz教授らの触媒抗体に関する論文を読んでは夢を膨らませていた。また、近化でお世話になっている諸先生方からもスクリプスの話しを伺う機会があり、留学先としてごく自然にスクリプスを選んだ。前述の様にスクリプスはもともと医学、生物学主体の研究機関であるため、生体由来のタンパク質やペプチドを扱う研究室が多い。しかし、私は化学的な手法で天然に無い新しいペプチドを合成するということに強いこだわりがあったので、DLアミノ酸からなる環状ペプチドを自己集合させたペプチドナノチューブの研究をしているReza M. Ghadiri教授2にコンタクトをとって席を作ってもらった。留学の細かい経緯などは紙数の都合上ここでは省くが、スクリプスの教授陣は一般に親日家が多いので、留学を考えている方は何はともあれお目当ての先生に直接メールを書いてコンタクトをとることをお勧めする(日本からのメールはきちんと見ている人が多い)。非常にリッチな研究室が多く、金銭的な事も頼めば何とかなる場合がほとんどである。

Ghadiri教授はTrost教授(当時ウィスコンシン大学)の下で博士号をとった後にヘリックスバンドルで有名なKaiser教授(ロックフェラー大学)の研究室でポスドクをされた経歴の持ち主であり、生化学やタンパク質科学だけでなく有機化学や有機金属化学にも造詣が深く、ディスカッションする度にその知識の豊富さと勉強量のすごさに圧倒された。教授は研究上の独創性や自主性を大変重んじる方で「独立独歩の気風みなぎる緻密な完璧主義者」というのが1年間お世話になった印象である。論文作成に対するこだわりはスクリプスの中でも随一で、minor revision で採択可と返ってきた投稿論文の実験を納得いくまでやり直し、半年後、1年後に再投稿することも珍しくない。このあたりはGhadiri教授が書かれた論文のイントロなどを見て頂けるとよくわかると思う。特に印象に残っているのは、ディスカッションの後に指示された事を無思考にそのまま実行に移そうとした時に、もっと考えて自分のアイデアでやりなさいとお叱りを受けたことで、その際「I don’t like robots.」と言われた事を今でもよく思い出す。

Ghadiri研はNature誌の表紙にもなったペプチドナノチューブでよく知られた研究室であるが、その研究内容は広範多岐にわたっており、私が在籍した当時(2002-2003)にはDNAコンピューター、タンパク質を利用した超分子、生体分子センサー、自己複製ペプチドなど複数の分野にまたがる学際的なテーマが展開されていた。そのため、化学以外の様々な分野から選りすぐられた学生やPDが在籍する非常にヘテロな環境が形成されており、物理学や医学のバックグラウンドを持つ研究者はもちろんのこと、数学者まで在籍していたのには本当に驚いた。また、他の研究室や研究機関との学術交流に対しても非常に積極的で、学生やPDは必要に応じて、研究遂行上必要な知識や技術をもつ他の研究者や研究室に自由に出入りして、自分の判断で共同研究を立ち上げるという事が当たり前の様に行われていた3。実はこの様な運営方針はGhadiri研だけでなく、スクリプス全体をつらぬく基本方針として組織の隅々に浸透している。学問上の交流を促すため随所に施された有形、無形の工夫には唸らされることが多く、化学以外でも良い勉強をさせてもらった。元来物見高い性格の私はこういう雰囲気に乗じてスクリプス中の研究室に出入りさせてもらったが、全く研究室と関係のない人間が出入りしていても見咎められることはまずなかった。この様な状況は米国でも珍しいらしく、UCアーバインで博士号をとりスクリプスの隣にあるファイザー製薬に勤めていた鎌谷君が遊びに来た時に、部外者が自由に出入りしている様子を見て大変驚いていた。スクリプスの雰囲気はクリックケミストリーに関する論文を見て頂けると理解しやすい。クリックケミストリーとはSharpless教授らによって展開されているアジドとアセチレンの1,3-双極子付加によるトリアゾール生成反応を利用した化学だが、2000年から現在までにスクリプスから出た約60報の関連論文うち40報以上がSharpless教授の名前の無いもの、もしくは名前はあるが主著者でないものであり、有用な学術的知見を軸にした交流を積極的に図ることによって組織を活性化している良い例だと思う。

スクリプスについてもう一点特筆すべきなのは構成人員の約80%が非米国人であるという点である。例えばGhadiri研ではGhadiri教授と技官のAsad氏がイラン出身なのをはじめ、レバノン1人、イスラエル4人、英国2人、スペイン2人、カナダ2人、インド1人、中国1人、日本人1人、米国4人といった具合でまさに「人種のるつぼ」を地でいく構成だった。この様な状況は私の様に島国根性の染み付いた人間にとって本当に良い経験になった。私が留学したのは、おりしもイラク戦争が始まろうという時期だったが、アラブ、ユダヤ、アングロサクソンが同居する研究室では世間の喧騒を他所に和やかな研究室生活が繰り広げられており、国際人としての修行が足りない私を大いに悩ませた。後に、家族ぐるみのお付き合いをすることになったAshkenazy夫妻からイスラエルとイランは昔から関係良好だと聞いて少しは納得したのだが、日本のマスコミ報道で培った常識やイメージがいかにいい加減なものか思い知った。

最後に、1年にわたる長期出張を許可して下さった直田健先生をはじめとする学科の先生方、研究室運営においてご迷惑をおかけした今田泰嗣先生、小宮成義先生ならびに研究室の学生さん達に心より御礼申し上げます。また、滞在中にお世話になった全ての方に感謝致します。

 

1) スクリプス設立の経緯や組織運営についてはJanda研助手の松下正行先生が書かれた「スクリプス研究所の発展の秘密―世界最高の研究所はこうして創られた」, 化学, 59(11), 32 (2004) をご覧下さい。

2) Ghadiri研: http://www.scripps.edu/chem/ghadiri/ 現在改訂中で繋がらない時があります。

3) 日本で言う修士課程の学生さんによる共同研究(Salk研究所)の例: Science, 306, 283 (2004).