1月上旬、九州で学会に参加していた私のもとに伊丹教授から一通のメールが届く。見た瞬間、手の震えが止まらなかった。
「今頑張っている論文が通ったら、Scrippsに数ヶ月行きませんか?」
4ヶ月後の2014年5月18 日、その日は私の24歳の誕生日であり、またアメリカ、サンディエゴでの5ヶ月間の生活がスタートした日でもあった。
Scripps研究所はアメリカ西海岸に位置する世界最高峰の総合科学研究所であり、超一流科学者が集う、科学者なら一度は行ってみたい憧れの場所である。科学者の「メッカ」といえる場所でBlackmond研とYu研の二つの研究室を体験できたことはこれまでの化学人生の中で間違いなく最も幸運なことである。
Donna G. Blackmond教授は反応機構解明研究において世界的な権威である。私は彼女の研究室で、自らが開発したニッケル触媒を用いたカップリング反応の機構解析に取り組んだ。Scrippsロゴの入った青い白衣を身に纏い、英語による安全講習を受け、意気揚々と実験を始めようとしたが…それは叶わなかった。
「ん?グローブボックスがない…真空ラインは…壊れてる!?脱水溶媒もない…」
真空ラインはなんとかなったものの、グローブボックスと脱水溶媒はどうしようもない。そのことをラボメンバーに相談すると、「よし、グローブボックスはFokin研に借りに行こう、脱水溶媒は買うと時間がかかるから、はじめはBaran研のものを使おう。」と言われた。アメリカの自由な雰囲気を思い知った瞬間だった。幸いにもその後毎日Fokin研、Baran研に足を運んだため、両研究室の学生と非常に仲良くなれた。
Blackmond研究室では自分のカップリング反応と並行して、機構解析のスキルを学ぶことを目的としてポスドクと共同でYu研で開発された反応の機構解明研究も行った。その際ポスドクに言われたのは、Blackmond研には様々なバックグラウンドをもつ人が来るから、慣れるまで大変なことをみんな知っているし、日本人は英語が苦手なこともわかっている。でも気にせずどんなことでも聞いてくれ、ということだった。初めての反応機構解明研究で、しかも速い英語、知らない英単語が飛び交う中、今までにない不安を感じていた私をこの言葉は救ってくれた。つい先日、彼と二人三脚で行ったプロジェクトがもうすぐ一段落を迎えるというメールが届いた。彼には感謝してもしきれない。
一方自分が持ち込んだ反応はというと、なかなかうまくいかなかった。Donna曰く、反応条件が厳しすぎて機構解明は少し難しいかもしれない、ということらしい。残念ながら良い結果を残すことはできなかったが、得られたものは数えきれなかった。Donnaだけでなく、在籍するすべてのメンバーがkineticsに関して多くの知識をもっており、親身になって教えてくれた。彼らが教えてくれた知識や手法は、日本での研究で存分に活かしていこうと思う。
3ヶ月間Blackmond研で研究を行った後は、Yu研に移った。Jin-Quan Yu教授といえば、有機金属反応に携わる人で知らない人はいない化学界のスーパーエースである。(ちなみに私が滞在した年の1年間にNature、Science合わせて4報出している。)伊丹教授の大親友であり、私の滞在を快く引き受けてくださった。Yu教授に挨拶をしに行き、研究についてディスカッションをしたのち、Jian Heという中国人学生の下について反応開発研究の手伝いをすることに決まった。
Scripps研究所の中で、Yu研は異質な空間と言える。基本的に多くの研究室は夜9時になるとほとんど人がいなくなる。しかしながらYu研は夜11時をまわるとようやく人が帰り出すのである。そのアクテビティの高さはJinも同様で、夕飯に帰ったあと夜9時にまた顔を出す。土日は休みのはずだが必ず研究室にいた。有機合成、反応開発に飢えていた私は、朝9時半から夜2時、土日休みもほぼ無しの生活を続けた。Blackmond研での生活とはうって変わったものとなったが、ここでの研究も大変充実したものとなった。
Scripps研究所の学生は天才が多い。Jianも間違いなくそのうちの一人だろう。Yu研でJinと対等に話す唯一の人物であり、Jinから最も頼られている存在でもあった。私はメインのプロジェクトを進めつつ、彼が提案したアイディアを元に、数種類の反応開発を行った。幸運なことに、こんな反応はどうだろう?と私が言った反応を試してみたところ、目的の化合物が収率10%程度で得られた。モノが得られたらこっちのものだ、と言わんばかりに、毎日夜遅くから始まるディスカッションで彼からこれを試そう、あれを試そう、と数多くの仕事を与えられた。そのとき彼がニヤッとして言った一言が今でも忘れられない。
「Keep you busy.」
メインのプロジェクトでリガンド合成と基質合成を進めながら、同時にもう一方の反応開発を行うのは決して楽なことではなかった
が、Jianと行った2ヶ月間の研究は非常に楽しかった。帰国日の前日、必死にカラムで精製したリガンドを遅くなってごめんと言って渡した時、「今までありがとう、Ryoと研究できて楽しかったし、とても助かった。あとの仕事は任せろ。」と言ってくれた時は本当に嬉しかった。そしてその夜、JinがJianと私をJinのお気に入りの中華料理屋に連れて行ってくれた。忘れられない1日である。
5ヶ月間の留学はあっという間の出来事だったが、この留学を通して得られたことや、友人は間違いなく私にとって生涯を通して最高の宝物になるだろう。最後にこのような機会を与えてくださった伊丹健一郎教授、留学に関して多くのご助言をくださった山口潤一郎准教授に厚く御礼を申し上げます。そして私の留学を快諾していただいたDonna G. Blackmond教授、Jin-Quan Yu教授にこの場を借りて心から感謝申し上げます。