Barbas Labに留学して:小野田晃

本体験記は近畿化学協会有機金属部会Organometallic Newsに掲載されたものを改変、編集したものです。掲載内容は2009年11月当時のものです。

2007年4月からの1年間、スクリプス研究所のCarlos F. Barbas, III 教授の研究室への留学の機会を頂いた。

スクリプス研究所は、米国カリフォルニア州サンディエゴ近郊のラホヤにある。サンディエゴは、温暖な気候と太平洋を臨む美しい海岸に恵まれた都市だ。夏の週末になれば、どのビーチも海水浴、サーフィン、カヌー、サイクリング、シュノーケリング等を楽しむ人達で賑わう。海岸沿いを歩けば、ペリカン、アザラアシらの姿を見ることができる程、自然に溢れた場所であり、アメリカ人にとってもサンディエゴは憧れの都市の一つである。特にラホヤは古くからのリゾートで、UCSD (カリフォルニア大学サンディエゴ校)のお膝元の落ち着いた治安の良いエリアだ。

スクリプス研究所は、医学・生命科学・化学の分野における基礎研究を行う米国最大の non-profit の私立研究機関である。数十年前は、スクリプス病院付属の小さな研究施設であったが、現在は教授陣、ポスドク、学生、技術・事務職員等を含め総勢2800 名が働いており、敷地面積も 9 万 m2 という巨大な研究所に発展している。1 その運営は、教授陣が獲得する NIH 等の政府機関からの研究資金と製薬会社等の民間企業からの資金によってまかなわれており、研究に専念できるすばらしい研究環境は、留学された先生方からの話を聞いて以前から興味があった。

筆者の専門は、錯体化学、生物無機化学であるが、留学先では生命科学と融合したプロジェクトに取り組みたいと考えて、米国の幾つかのラボを候補に考えて連絡をとっていた。最終的に Barbas 研に決めた理由は、PI の Carlos が化学のバックグランドでありながら、抗体触媒、ファージディスプレイ、亜鉛フィンガーに代表される幅広い研究を、生命科学の本質と医薬を意識して、ダイナミックに展開するスタイルに魅力を感じたからだ。

Barbas 研は二十数名で推移しており、そのほとんどはポスドクで、出身国も専門分野も多彩だった。有機触媒の研究を進める chemistry グループと、抗体・亜鉛フィンガーを使った細胞や生物への利用を照準にした biology のグループに分かれて研究を行っており、筆者は希望通りの後者のグループに合流することになった。Barbas 研があるBeckman 棟は、美しい Torrey Pines ゴルフコースに面しており、その先は太平洋というすばらしい立地である上に、筆者はこの絶景を眺望できる 5 階の窓際のデスクを、運良くあてがわれた。“Show time !!”、ポスドク仲間の号令で日よけカーテンを開ければ、眼前には太平洋に沈む大きな夕日。今も鮮明に思い出す光景である。

Carlos と接して強く感じたことは、彼が非常にエレガントで魅力的な研究アイディアを生み出すことができる研究者だということである。ラボのメンバーも、この点の彼の才能を特に尊敬していた。ミーティングの際に、Carlos が広い見識の上にたって、研究を大きくまとめ上げるためのポイントに絞って質問する姿も、大変勉強になった。彼はスクリプス研究所で若くしてポジションを獲得し、研究の展開も精力的だが、温厚な性格だ。普段は、小意気な格好で颯爽と所内を歩いている一方で、教授室は床まで論文の山で溢れていているあたりは、いかにも研究者らしい。部屋に入ると、10 年あるいはさらに先の将来を見据えたプロジェクトを考え出すために、彼が必死であることを感じた。

Barbas 研での筆者の主な研究テーマは、DNA配列に基づいた活性制御が可能なスプリットDNAメチル化酵素を2、実験室進化法によって高活性化して、ほ乳類細胞への応用を目指すことであった。筆者にとっては手探りの分野であったが、このプロジェクトを進めておられた野村渉先生(東京医科歯科大)にお世話になりながら、付け焼き刃で勉強しつつ研究に取り組んだ。専門と違う分子生物学の手法を使って、エピジェネティックス領域の最先端の研究に没頭でき、非常に充実した1年間の留学生活をおくることができた。

留学中で印象に残る出来事の一つは、大手製薬会社が Carlos も参画しているベンチャー企業を買収したことである。サンディエゴは、バイオクラスターと呼ばれる程、アカデミック、民間の研究所やベンチャーが集まるエリアであり、研究所にはベンチャーを立ち上げる PI も多い。ラボのメンバーの話によれば、彼はこの件で驚く程高額な売却益を得たようだ。Carlos は論文だけでなく、特許にも常に注意を払っていたことも、筆者には新鮮だった。実際に基礎研究がベンチから応用へ向けて飛び出す一コマを、間近で垣間見ることができたことは良かった。

気さくで賑やかなラボのメンバーに恵まれたことも幸運だった。一緒に昼食にでかけ、食後は Beckman 棟の吹き抜け部分にあるソファーに集まってのコーヒーブレイク。サイエンス、ビザ、大統領選の喧々諤々の議論から世間話まで、最初は聞き取るのも大変だったが、なんとかカットインしようとするうちに会話力は鍛えられた気がする。すでに大半のメンバーはサンディエゴを去ったが、世界各地の新しい環境で研究していると思うと楽しい。留学期間中に様々な分野の研究者の方と出会ったこと、そして、家族でアメリカを満喫できたことも何よりの財産になった。

最後に、筆者を快くグループに受け入れて下さった Carlos F. Barbas, III 先生にこの場を借りて心から感謝申し上げます。また、留学を支援した下さった東京理科大学の山村剛士先生、そして、お世話になった方々に厚くお礼申し上げます。

2 W. Nomura et al. J. Am. Chem. Soc. 129, 8676-8677。